「――会長、内田さんと真弥さんをお連れ致しました」 会長室に戻って来られた主任は百八十センチを超える長身の男性と、身長百六十センチくらいのポニーテールの女の子と一緒だった。女の子の方は少し大人っぽいけれど高校生くらいに見えないこともないので、多分彼女が真弥さんだろう。「おかえりなさい、桐島さん。ありがとう。――お二人とも、お久しぶりです。その節はお世話になりました。今日は急にお呼びだてしてしまってごめんなさいね」「いやいや。篠沢会長、お久しぶりっす。あれからウチの事務所、ストーカー関係の調査の依頼が殺到しててかなり儲(もう)けさせてもらってるんだよ。いやもう、篠沢会長さまさまって感じでさ」「ちょっと、やめなよウッチー! みっともない!」 がめつい話を始めた男性の鳩尾(みぞおち)に、女の子の正拳突きが見事にヒット。男性は「うっ!」と呻いた。――なるほど、彼女は空手をやっているらしい。そして多分、男性は女の子に頭が上がらないらしい。……これはあくまでわたしの勝手な想像だけれど、強(あなが)ち間違ってはいないと思う。「絢乃さん、お久しぶりです。――で、そちらの女性は?」「こちらは、この春入社されたばかりの矢神麻衣さん。秘書室所属で桐島さんの部下なの。今回の依頼人はわたしじゃなくて、彼女」「初めまして。矢神と申します」 わたしは名刺入れから自分の名刺を抜き出し、男性の方に手渡した。小川先輩や主任から聞いたことだけれど、秘書と言うのは名刺交換をする機会が多いのだそう。「これはご丁寧に。オレは〈U&Hリサーチ〉所長の内田圭介(けいすけ)です」「そして、あたしは調査員の葉月真弥です。……麻衣さん、って呼んでもいいですか? あたしにも名刺下さい」「ええ、どうぞ」 内田さんと真弥さん、それぞれから名刺を受け取り、真弥さんにもわたしの名刺を手渡す。お二人の名刺はパソコンで作成したと思われるオリジナルのものらしい。多分、真弥さんのお手製だろう。「真弥さん、高校生なんですか? さっき、桐島主任から聞いたんですけど。通信制に通ってるんですよね?」「はい、そうですよー。今十八歳で、三年生です。だから麻衣さん、タメ口(ぐち)でオッケーですよ」 真弥さんはわたしより五つ年下なのに、わたしより大人っぽい。そういえば、会長も四つ年下だったっけ。「――さて、では今回の
――それから十分くらいして、会長のデスクの固定電話に内線の着信が入った。「会長、僕が出ます。――はい、会長室です。――はい、会長にお客さまが二名、ですね。承知してます。入館証の発行をお願いします。よろしく」 内線は受付からだったようで、わたしは宮坂くんが会社まで押しかけて来た時の記憶が甦(よみがえ)り、思わず体を強張らせた。でも、すぐに来客があの男ではないことを思い出し、肩の力を抜いた。「……矢神さん、大丈夫? 怖いことを思い出しちゃったみたいね」「あ……、はい。でも、もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 会長はもちろん、あの男がこのオフィスへ来たこともご存じだから、様子がおかしくなったわたしのことをさりげなく気遣って下さったんだと思う。「――会長、内田さんと真弥さんが到着されたようなので、僕は一階までお二人を迎えに行って参ります。よろしいでしょうか?」 受話器を置いた主任が、来客――調査事務所のお二人の到着を会長とわたしに告げられた。「迎えに行く」とおっしゃったのは、来客が勝手に重役フロアーまで上がってくることを、この会社のルールで禁じられているからだ。重役フロアーへの来客=お客さまもVIPであることがほとんどだから、でもあるらしい。「ありがとう。じゃあお願いね」「かしこまりました。では行って参ります」 主任が退出してから、会長室にはわたしと会長、女性二人だけが残った。「あの……会長。調査の費用は…
「――ねえ、矢神さん。この書き込みをしたのってもしかして、この前話してくれた宮坂って人なんじゃない?」 会長はわたしが言う前に、この投稿が宮坂くんの仕(し)業(わざ)ではないかと見抜かれた。やっぱりこの人、ただ者じゃない。投稿したアカウントは彼の実名ではないのに、そこまで分かってしまうなんて。「わたしもそう思います。桐島主任がわたしの上司だということも知ってますし。……ただ匿名なので、本当にそうなのかどうかはまだ分かりませんけど」 わたしの答えを聞いた会長は、少し考えた後にこんな提案をされた。「こうなったら、プロの手を借りた方がよさそうね。わたしもお世話になった調査のプロを紹介するから、その人にこのアカウントの持ち主を特定してもらいましょう」「会長、それって〈U&Hリサーチ〉のお二人のことですね」「うん。――わたし、今から真弥(まや)さんに連絡取ってみるよ。繋がるといいんだけど」 会長はそう言うとすぐ、スマホで〝真弥さん〟なる女性に電話をかけられた。どうやら主任もよくご存じの人みたいだけれど……。「……主任、つかぬことをお訊ねしますけど。〈U&Hリサーチ〉って? 真弥さんっておっしゃるのはそこの人なんですか?」 わたしは会長のお電話中に、小声で主任に訊いてみた。「えーと、〈U&Hリサーチ〉っていうのは去年の秋、絢乃会長がストーカー被害に遭った時に、犯人を特定してもらった調査事務所なんだ。男女二人だけでやってる小さな事務所なんだけど、腕は確かだよ。で、そこで実際に調査をしてるのが葉(は)月(づき)真弥さんなんだけど、実はまだ高校生なんだって」「高校生?」 腕のいい調査員が高校生だということに、わたしは驚きを隠せない。「そう。会長の一コ下だから、今高校三年生かな。確か通信制高校に通ってるって聞いた。で、そこの所長の内(うち)田(だ)さんっていう男の人が元警視庁の刑事さんでね」「元刑事さん……ですか。じゃあ、警察に顔が利く会長のお知り合いって言うのが……」「その内田さんだよ」「なるほど……」 これで会長にまつわる一つの謎が解けたと同時に、絢乃会長の人脈がいかに広いのかを改めて知った。「……ええ、ありがとう。じゃあ、待ってるね。――矢神さん、真弥さんが今からここに来てくれるって。……ああ、えっと。真弥さんっていうのは――」「先ほど主任
「でも、これって放っておくわけにはいかないですよね。何か対策を考えないと、わたしはともかく、主任が世間から白い目で見られちゃいますよ」 主任はこの先、絢乃会長との結婚を控えていらっしゃるのだ。会長がどう思われるかは分からないけれど、篠沢家という名家に婿入りするのにふさわしくないと世間の人たちは思うかもしれない。お二人の関係はもう公(おおやけ)になっているから。「…………分かった。矢神さん、これから一緒に会長室へ行こう。会長に、これからどうするか相談してみようか」「はい。わたしもその方がいいと思います」 わたしたちの会話を聞いていた小川先輩も、「私もそう思うよ」と同意して下さった。「というわけなんで、室長。僕と矢神さんは少し業務から外れます。……とはいっても、僕はすぐ仕事に戻れますけど」「分かりました。指導係の小川さんも承知しているなら、私は構いませんよ。行ってきなさい」「室長、ありがとうございます。行ってきます」 主任はわたしを連れて、会長室へ。主任がドアをノックして入室すると、デスクから立ち上がって出迎えて下さった会長は主任の後ろにわたしもいることにちょっと驚かれていた。「おはようございます、会長。矢神さんのことで、ちょっと困ったことが起きたので、二人で相談しに伺いました」「……おはようございます」「おはよう、矢神さん、桐島さん。――ちょうどよかった。わたしも今、二人をここへ呼ぼうと思ってたの。こ
――桐島主任は翌日からも、平日には毎日出勤時と退勤後にわたしの送迎をして下さった。 帰りには必ず「矢神さん、お腹減ってない?」と訊いて下さって、時々は一緒に夕飯を付き合って下さることもあった。 その時はたいてい牛丼屋さんやラーメン屋さん、回転ずしなどのごく一般的なお店。絢乃会長とはいつも高級なお店でお食事をしていると思ったら、「わりとこんなもんだよ」とおっしゃっていてビックリした。それも、会長のリクエストでそうなるらしい。 わたしは入江くん一筋で主任に恋心なんて抱いていないし、主任だって会長と相思相愛なので、これは決してデートなんかじゃないのだけれど。宮坂くんも果たしてそう思っていたかどうか……。 * * * *「――おはようございます」「おはようございま……、どうしたんですか?」 今日も、わたしは主任と一緒に出社してきたのだけれど。秘書室の皆さんの様子がどこかおかしい。小川先輩がスマホを覗き込みながら、眉根をひそめている。「矢神さん、桐島くん、おはよう。――ちょっとこれ見て」「えっ?」「何ですか?」 わたしと主任、二人揃って先輩のデスクに近付きスマホの画面を見せてもらうと、そこに表示されているのはSNSのある投稿だった。『この女は俺のカノジョですが、つい最近別のオトコと浮気してるっぽい。 オトコはカノジョの会社の上司だって。どうせコイツがカノジョを誘惑したんだ。 俺のオンナに手を出すな~~!!(怒) #篠沢商事 #浮気相手に制裁を』 その投稿には、ウチのマンションの前で話し込むわたしと主任を横から撮ったと思しき2ショット写真が添付されている。撮られた覚えなんてないので、きっと隠し撮りだろう。「何、これ。いつの間に……」「またか……」 わたしは気づかないうちに盗撮されていたことに呆然となり、主任はSNSで攻撃されたのがこれで二回目だということにウンザリしているようだ。「業務の一環で、〝篠沢商事〟のタグでこの会社に関する投稿を検索してたらたまたま見つけたの。――私は桐島くんが会長とラブラブなこと知ってるし、矢神さんにも他に好きな人がいるらしいことは分かってるから、別に何とも思わない。でも、何も知らない人はこの投稿を見て、文面どおりに解釈するでしょうね」「あ……、そうですよね」「矢神さん、桐島くん。この投稿した人に心当
――わたしは主任が運転するシルバーのセダンの助手席に乗せてもらい、代々木のマンションまで送ってもらうことになった。……でも緊張して、何だかそわそわして落ち着かない。 それに、いつもならこの席には絢乃会長が座っているはずで。運転席から助手席の間って、親しい間柄の人たちの距離感だよなぁと思ってしまう。「あの……、なんかすみません。会長の指定席を取ってしまったみたいで」 華麗なハンドル捌きの主任がカッコよすぎて直視できず、わたしは前を向いたままとにかく何か言わなきゃ、と口を開いた。「いや、いいんだよ。二人だけで乗ってる時に後部座席っていうのもね、なんか変だし。っていうか、いつも会長には当たり前のように助手席に乗って頂いてるから、そのクセで」「ああー、そういうことですか」 ……う~ん、気まずい。会話が続かない……。「そういえば、会長の助手席デビューも僕のクルマだったんだ」「えっ、そうなんですか?」「うん。これじゃなくて、ボロい中古の軽(ケイ)だったけどね。本人の希望だったから」「へぇー、そうだったんですか……」 今や日本屈指の大財閥のトップであらせられる絢乃会長が、中古の軽の助手席に乗っている姿か……。何だか想像がつかない。「その時の様子って、どうだったんですか?」「すごく嬉しそうにされてたよ。僕に『その若さでマイカーを持ってるだけでスゴい』っておっしゃってたし」「わたしもそう思います」「――そういえば、入江くんってクルマの免許持ってるんだよね? 確かバーベキュー親睦会の時、社用車で買い出しに行ったって久保から聞いた」「……えっ?」 唐突に入江くんの話題になり、わたしはビックリして主任の方を振り向いた。多分、わたしの緊張をほぐそうとして下さったんだと思う。「はい、持ってます。大学の頃、夏休みに合宿免許で取ったって言ってました。でも、クルマは持ってなくて……」「残念だよね、矢神さん。もし彼がクルマを持ってたら、こうして一緒にドライブできてたかもしれないのに」「あ…………、はい……。そうですね」 もしかしたら、主任に見透かされていたのかな? 運転しているのが入江くんだったらよかったのに、なんてわたしがこっそり思っていたことを。「あ、もしかして、『運転してるのが入江くんだったらよかったのに……』って思ってた?」「…………はい」